お芝居は観客を必要とするのか?

お芝居は、作品が残らず消えていくものなので、誰かに見てもらわなければ、意味がない。

僕は、お芝居を始めた最初から、当たり前のようにそう感じていました。そのことに、何の疑問も持たずにいました。

つまりは、誰かに良いという評価をリアルタイムでもらわないと、駄目なものとして、演劇を考えていたわけです。文学や絵画なら、死後何年かして評価されるとか、それもありかと思いますが、演劇はそれでは、駄目だろうと。

みなさんは、どう思われますか?

僕は、最近、この評価をもらうことが、そもそもボタンの掛け違いではないかと、考えてみることに変更しました。

評価してもらおうとするから、評価してもらえない。かといって、評価もされない演劇って意味があるのか?って、ことですね。

急がば回れではないですが、いったん、評価を期待しない演劇や芝居を突き詰めてみる必要があると感じているわけです。

例えば、武術であれば、自己鍛錬として、敵と戦う必要もなく技を極められます。強くなければ意味がないとか、勝たなけれ意味がないとか、結果を求めれば、それは武術から離れて、スポーツにしかならないわけです。

結果がすべてとか、言ってしまうのは、単に商業主義に食い潰されただけのことですよね。そして、もてはやされている時は、お金が廻って、成功しているように感じたとしても、あっという間に風俗は、移り変わり、商業的に価値がなくなれば、捨てられる。本質を捨てたあとで、商業から捨てられても、もはや立て直しは、不可能になると思います。

演劇は、もうすでにそうなっているような気がするのは、僕だけですね。笑

間違って欲しくないのは、評価されない芝居を、好き勝手に思いつきで、表現するとか、何かするとか、そういう下世話な、自分勝手なジャンルに貶めるとか、そういう事を言っているのではありませんから。自分のウンコ見せて、どうだ!とか、じゃないですからね。ありのままの自分でいいとか、かなり危ない、ところに今ありますよね?

どういうことかと言えば、観客が、いてもいなくても、気にならないくらい集中のるつぼに入る演劇であること、もしくは、観客と演者との境目を見失うほどの、その場ごと(劇場ごと)るつぼに没入すること。このどちらかの、演劇を目指していくということです。ある思いついた、事柄や表現を、見てもらって評価してもらうのではなく。ただただ、集中の渦のなかに埋没するだけの演劇であります。

そう考えれば、明らかにいままで当たり前と思っていた、お芝居へのアプローチが、違う!と感じられるのでは、ないでしょうか?

お客様を笑わすことでもなく、感動してもらうことでもなく、メッセージを伝えることでもない、ただただ、演劇という沼に、一緒に入ってもらうこと、そのために役者は、何を磨いて行けば良いのだろうか、とうこと。

そして、そう考えて稽古してでてくるこが、、身体とか、幽玄とか、影とか、間とか、あれあれあれ?日本文化ですか?これは?まさか、そんな演劇は、日本のお家芸だったのかもって、感じている今日この頃です。

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