故、黒田鉄山師の考え

面識はありませんが、書物はいろいろと拝読させていただいておりました。黒田鉄山さんがお亡くなりになりました。心より、お悔やみを申し上げます。

せっかくなので、黒田鉄山師の書籍より、引用してみたいと思います。みなさんは、そもそも武道と芸術は全然ちがう分野だろうと思っているかも知れませんね。学校教育では、たぶんそうなると思いますが、日本文化とは身体文化であり、感覚の文化なのですが、その標準の所作とは、すべてに通じる物なのです。つまり、芸術をする人、武道をする人、農業をする人、踊る人、楽器を演奏する人、すべて同じ所作の技のうえに成り立っているのです。ですから、日本にはマニュアルがありませんし、みんなをまとめるための宗教もあまり必要とされないのです。そもそも、ひとつの思想の動きをしているわけです。
*書籍 消える身体を求めて より
絶望的難しさというのは、そういう身体文化を身近に持たずに、西欧式運動理論や他の文化にそれこそ専門的に携わってきたがゆえのむずかしさであろう。元来、日本人は空のななにこそ色は在るのだという考え、人生観を持っている。形がないなら、何もないのだという西欧的な考えからは、いかに方法論とはいえ、稽古における自己の否定などそれこそ考えられぬことであろう。

そして、技と言われるものは、すべて老若男女で差がつものはない。

問題なのは、こうした言葉が言葉として知っていても意味がないということです。そんなことだったら、こうした知識はかえって、邪魔になります。つまりは、こうした言葉が、実際に想像つくのか?はたまた、感覚できるのか?が大切になるわけです。そのために稽古するわけですけどね。

老若男女で差がついたら、技とは言わないという言葉は、面白いけど難しいですよね。でも、好きなんですこの言葉。トレーニングで、筋肉をつけても、技には関係ないよってわけですよ。じゃあ、稽古しなくても良いじゃないか、って考えないで下さいね。それは筋肉思考ですから。笑。つまり、感覚をつかむ稽古が必要になります。これは明治以降、とことん西洋式をたたき込まれた、私たちにとって、最大の難関です。数値化された、血糖値だとか、酸素量とか、血圧とか、そうした科学的なものを信用して、自らの感覚を信用できない物として捨ててきました。なので、今更、感覚をつかめと言われても、現代では、難しい問題になってしまったわけですね。江戸時代の人だったら楽だったのに、、

こうした感覚がわかれば、考え方も変わります、そして思想も出来上がるわけです。
日本人は、この技の追求ゆへ、思想もできあがり、宗教を必要としない、悟りに近い型を稽古によって得られていたのです。

まさに感性を誘導するための所作というわけです

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