スタニスラフスキー・システム

スタニスラフスキー(1863~1938)

1898 モスクワ芸術座を結成 「かもめ」を上演
1904~1905 日露戦争
1906 坪内逍遙島村抱月イギリス・ドイツ留学後文芸協会を設立。
1909 小山内薫二代目市川左團次自由劇場を結成
1911 スタニスラフスキーシステムの原形ができる
1912 第一スタジオ設立 多くの者が教授可能な公式にする
1913 島村抱月と女優の松井須磨子が脱退し、芸術座を旗揚げ
小山内薫は、モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーと出会う
1914~1918 第一次世界大戦
1917 ロシア革命
1918 島村抱月スペイン風邪にて急死
1919 小山内薫久保田万太郎らと演劇革新を目的として国民文芸会を創立
1920 松竹が映画制作のために松竹キネマ合名社を創立
キネマ俳優学校を作り小山内薫が校長スタニスラフスキーシステムが採用される
モスクワ芸術座がソビエト政府からアカデミー劇場とされ政府の管理下になる
1923 関東大震災
モスクワ芸術座アメリカ公演、リーストラスバーグが刺激を受ける
1924 スタニスラフスキーが全貌を書籍にすることを決意、英文で出版
築地小劇場設立 日本ではじめて「演出」という言葉ができる
1930 アメリカ、ニューヨークでグループシアターが設立される
リーストラスバーグステラアドラースタンフォードマイズナーなどが所属
スタニスラフスキーシステムが採用される
1941~1945 太平洋戦争
1947 アクターズスタジオ設立
1952 リーストラスバーグがアクターズスタジオの責任者になる
スタニスラフスキーシステムから独自のメソッド演技を確立する
1958 モスクワ芸術座日本公演

スタニスラフスキーシステムは、フロイトの心理学を元にしている、潜在意識を使うわけですが、それは、意識に働きかける潜在意識のことであって、身体演技で捉えようとしている無意識無自覚とは、違う身体観になります。グループシアターの中で、ステラアドラーとスタンフォードマイズナーが、スタニスラフスキーの直接指導を受けています。フランスのベラレーヌシステムもスタニスラフスキーに指導を受けています。

イギリスのロイヤルシェイクスピアシアターは、”Don`t act. Being!”

演技方法といわれていますが、ひょっとしたら指導方法なのかもしれません。つまり、名優でなくても指導は、できますという教育システムを作りたかったのかもしれない。日本では、イギリスで学んだ島村抱月が早くに亡くなってしまったこともあり、スタニスラフスキーシステムが主流になったのかもしれない。
ちなみに、世阿弥による風姿花伝は、1400年に書かれた

いろいろな指導システム

・イヴァナ・チャバック 12のステップ
日本で行われるワークショップ(外部リンク)
・ステラアドラー 魂の演技レッスン22
・サンフォード・マイズナー オンアクティング
成井豊のワークショップ
ゼンヒラノ演技スタジオ