気持ちを込めろというけれど
noteに投稿した内容と同じになります
よく演劇をしてて言われるのが、気持ちが入ってないとか
もっと気持ちを込めて台詞を言えとか、言われる。
誰でも聞いたことがあると思います。
もちろん、日常生活でもありますよね。
謝罪してても、謝っているように感じられない事って、テレビ観ててもよくありますしね。真摯に受け止めてなんて、いうけど。真摯に受け止めるという身体感覚は、誰も持ち合わせていないので、言葉だけが宙に浮かんで、流れていく様に感じられます。
本当のところ、身体感覚を伴われない言語は使うべきではないのですが、最近は、もう横文字だらけで、感覚のない言語だらけですね。言語の記号化が進んでいるわけです。
ところで、気持ちって込めるものなの?
イメージとしては、あれですかね?
素うどん(言葉)にトッピング(気持ち)を乗せるみたいな?
それって、言葉の装飾なのかな?
それだとどこまでいっても、嘘になりませんかね??
そんなの言葉の綾だろう!って、怒られるかな?笑
でもね、気持ちを込めろって、言われたら、
その通りにするかもしれません。
いや、案外みんな込めているんじゃないのかな?
ここを注意深くして
言葉の選別をしたほうが良い様な気がします。
この場合、感情があるから言葉が出るのであって、無感情で言葉が出て、あとからそれに気持ちを込めるってのは、順序が逆なわけですよね。
それが、お芝居の場合、台本にあらかじめ台詞が用意されているから、ついつい感情があとからになってしまって、挙げ句に、もっと気持ちを込めろ!と言われてしまうわけですね。
本来、感情とは予期せずに湧いて出てくるものなのかもしれないし、言葉にしてみたところで感情とは一致しないことを言葉にしてしまうことだって、ありますよね。
そう考えると、感情と言葉は、主従関係を持たない、分離的関係性の中で成立している存在なのかもしれない。言葉が外部に向かい、感情は自分に返ってくる存在なのか、感情が外部に出され、言葉が自分にもどってくる存在なのか、どちらもありだと思うが、いずれにせよ、役割の違うことを補填し合っているのかもしれない。
そうすると、感情と言葉は、内側と外側の問題と捉えて考えてみれば面白い展開がありそうな気がします。ですから、言葉に気持ちは込めるのでは無く、分別しなさいってことですかね??笑
わたしたちは、普段の生活のかなで、不用意な動詞を行為に当てはめてしまって、そのまま習慣化してしまうことがありますが、案外そんなことで、うまく事が運ばないこともありますので、気をつけてみたいところですね。
それでなくても、身体感覚とかけ離れた、言葉がいっぱいの世の中になってきましたから、身体はそれなりにストレスを抱え込んでいるわけです。