演劇で使われる感情って何?

この投稿は、noteに書いたものと同じです

いきなりやっかいなテーマに切り込んでいますが、汗

まず、感情って、どんなものがありますか?
喜怒哀楽ですか?それとも絵文字にあるようなものですか?

演劇において感情表現って、自分の意思を他人に伝えるためにおこなわれる伝達方法の一つにすぎないのかもしれませんね。もちろん、普通の生活でも、そういう面は大きくありますね。どういうことか、というと、この世の中に、自分たった一人になったときに、それでもあなたは、感情を表しますか?と問い直してみる。どうなんだろう?たぶん、説明的な感情表現はしなくなるだろうけど、なにか発散はしたくなるでしょうね?

昔の人の話ですが、妊婦さんが出産の時に、一人で、鎌をもって山へ行き、竹藪の中で出産してかえってくる。なぜなら、陣痛が激しく痛むのは、周りにひとがいるから、大変なことをしているというアピールをしてしまうから痛いのであって、誰もいなければ、痛くないだろうみたいなお話。本当かどうかは知りませんよ。笑

ただ、これらは、あくまでも「表現」であって、感情そのものって、もっと違ったものかもしれませんよね。そう、なにかのエネルギーのかたまりのようなものなのかな?

何が、言いたいのかというと、感情表現と感情は、違うものなのかもしれないということです。もちろん、演劇は、表現することなんだから、そんなことを掘り下げる必要は無いのかもしれません。

でも、ここを適当に扱うと、ボタンの掛け違いをするかもしれませんよね?

悲しいという表現があって、それを演技しようとしたとき、何かきっと、悲しいことがあるからだとうと、台本をよく読んで、悲しい原因をみつけて、そこを掘り下げますよね?でも、理屈で感情って生まれてこないですよね?
この人は、こうこう、こういう理由で、この場面で悲しいんだと理解して、それをなぞって、演技しても、感情なんか動かないと思うわけです。

つまり、悲しい以前のなにか、うやむやしたエネルギーがあって、それが、結果として悲しいという表現をたまたま取ったという結果論であって、この場合、その結果からは、いくら逆算してもスタートのエネルギーにはたどり着かないと思うわけです。

感情以前のうやむや、そのまた前の何か得体の知れないエネルギーをどう、迎え入れのるかが、大切なのであって、結果をいそいで、演技をすると絵文字のような表現を越えないし、まったく楽しくないものになるんじゃないのかな?と思うわけです。あくまでも個人的な感想ですが。笑

そのためには、やはり、身体をよくよく見つめなおす必要があるわけです。感情は、外部からやってくるわけではないし、最初っから、これだよって、用意されているわけでもない。得たいの知れないエネルギーに何かすると、それが感情にまで、盛り上がってくる。それを技として、磨いてみることは出来ないのだろうか??

精神が強く働けば、当然、嘘の表現になるわけだし、身体の中の微弱な変化を捉えないと、こうした状態には、ならないわけです。

そのために身体集中をするわけで、嘘をつくため(それを演技っていうのならそれで良いです。)の精神集中とは、ちょっと種類が違うわけです。そのあたりの分別は、つけておかないと演技って楽しくなってこないですよね。

最近は、監督さんとかプロデューサーさんのワークショップなど、作る側の視点においた演技指導がなされることが多いですよね。つまりニーズに応えるという商業理論でしょうか?それで、監督さんに気に入られればすぐ仕事があるわけですし、そもそも役者は言われたことをしていればいいんだ的な、立ち位置ですよね。

このnoteでの記事は、そういうニーズに応えるための何か、直接的なことは、書いておりませんので、あしからず

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