演劇って感情の記憶を表現することなの?

ちょっと、演劇やっていない人は、何のこと?
ってなりますよね。ごめんなさい。
ハリウッド式の演劇では、自分の過去の経験から、演劇のその場面に適した、感情を呼び起こすってことを技法として取り入れたりしています。

たとえば、恋人との、やりとり。
本当の相手役を好きになれば、話は早いのですが、そういうわけにも行きませんので、過去の自分の恋愛経験から、それに近い感情を思い出して使ってみるというわけです。過去の経験された感情は、コントロールしやすい、らしい。?(あくまでも個々の感想だと思いますが)

で、養成所とかの若者は、必ず一人ぐらいは、こういいます。
「先生、僕、付き合ったことないので、わかりません。」

ある意味、正しいことを言ってます。じゃあ、殺人犯の役が来たらどうするの?それは、まだ経験可能だとして、(しないけど)ね。じゃあ王様の役はどうするの?輪廻転生を繰り返して、王様の子供として生まれ変わるまで、まつんかい?

だから、結局のところ、過去の経験に頼れば、かなり大雑把な近似値で、アプローチするしかない。しかも、経験の少ないひとは、さらに厳しいですよね?

それを補うのは、人を観察することだって、言うのですけどね。難しいお話です。人の外見をみて、内面を憶測するのは、ちょっと、無理でしょう。メソッドって方法論というよりは、ここからは、どうやら、根性論に近いですね。

そうしたアプローチ方法は、さておき、ある人から、演技に関して、痛恨の指摘を受けたことがあります。

演劇がろいろと試行錯誤しながら、リアリティを求めているのは、わかるが、入力方法をあれこれ考えても、出力、つまり例えば、台本で、ここで、泣くって書いてあったら、そこで、泣くんだろう?そういうことって、リアリティがあるって、言えるのかい?

百の入力に対して、答えは一つだとしたら、随分と不健康なことをしているよね?って。

僕は、かなりショックをうけました。

自分の思い通りの感情を表現できるとして、もしそれが、用意されたもであるなら、演劇は、芸術だと言えるのだろうか?いや、たぶん、無理だ。そもそも、感情が起きて、それを表現するとき、その方法が台本で指定されているのものだとしたら、もうお約束でしかない。

そうした表現は、娯楽や、興業になれても、芸術というには、あまりにも下世話な気がする。

つまり、こうしたアプローチは、表現方法として、茶番劇を演じているにすぎないのでは、ないのだろうか?という疑問を、もってしまったわけです。

でも、それが、プロなんだ!って、みんなは、言うでしょうね。

だから、その代償として、高額のギャランティや、ちやほやしてもらえること、麻薬を使うこと、偉そうにふんぞりかえることが、お仕事のみかえりなのかもしれない。

こんなこと書くと、もう俳優のお仕事こなくなりますが、笑。

それにしても、用意された演技ではないとするなら、つまり、それは即興なのか?そんなことが、可能なのだろうか?即興といっても、現在、即興演劇といわれているものは、かなり、違うものになるだろうな。即興演劇は、即興という方法論があるだけで、本当に即興かというと、疑問がのこります。ごめんなさい。

そして、僕は、とりあえず、過去の経験からの感情の記憶のアプローチをやめた。そうした演技は、僕の中で、かなり嘘っぽく感じるし、やっていて楽しくない。そう、とってもつまらない。現実の現場に、自分だけ過去に集中していたのでは、どうしても違和感を感じてしまう。そもそも記憶というのは、僕の中では、かなりねつ造されている。とくに年をとると、どんどん過去はねつ造されいく。笑

では、感情の記憶を使わずにどうやって、感情をつくり出せば、良いのでしょうか?

これは、とっても難問ですよね。

つづく。

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