ウオーミングアップ その2

武術研究者の甲野善紀先生が、パリのオペラ座で身体の動きに関する講義をしたときに、一通り説明したあとで、ではやってみましょうと言ったら。みんなが、無理ですと言った。なぜ?と聞くと、まだウオーミングアップもしていないのに、急に身体を動かしたりしたら、怪我をするし、身体を壊すかもしれないという答えが返ってきた。甲野先生は、武士はウオーミングアップしないし、そんな事をしている間に斬られてしまいますよ、とびっくりしたらしい。

クラシックバレエと武術では、両極端なのですが、この違いは、西洋の運動と日本の運動に対する観念の違いでもあります。怪我や故障を気にする西洋の運動には、確かに怪我や故障が多く、引退も早いです。一方日本の運動は、ウオーミングアップもせずに、運動をしているのに、故障も少なく引退もなく死ぬまで出来ることが多いわけです。これは、ちょっと変な話で、パラドックスですね。健康のためにランニングしているひとが、メインテナンスのためにマッサージに通うのは、ちょっとパラドックス的な現象なのです。健康にすごく注意を払っている日本人の、がん患者が他国より多いのもなんか変です。(失言ですごめんなさい)

武術だけではなく、能の世界でも、ウオーミングアップや発声練習して本番を迎えるようなことはしていないようです。では、演劇は?どうなの?西洋の概念では、必要だという答えが、帰ってくることでしょう。ところで、演劇はスポーツなの?芸術なの?ミュージカルならスポーツに近いかもしれませんけど、どちらかと言えば、全体として考えれば、芸術側に近いのかもしれません。

陸上の短距離走のスタートをテレビとかで見ていますと、ウオーミングアップが大切で、あとはスタートまでにいかに身体を冷やさないかが、問題になってくるわけです。つまりですね、タイミングと維持が大変なわけです。舞台ならだいたい開演時間が決まっているから、まだ良いですが、撮影になりますといつ本番が来るかは、以外と読めません。それに、芝居によっては、幕が開いたあと身体が、静まっていく方向性の芝居もあるわけですから、身体が冷めちゃうわけですよね??どうするんですか?だから、僕の勝手な意見を言わせてもらえれば、ウオーミングアップは、それが有効なお芝居は、案外少ないかもしれない。身体を温めたときは良いですが、冷え始めたらどうするんですか?という問題。つまり、これを芝居に入るときのルーティンにするのは、リスクのが大きいのでは無いのか?と思ったりするわけです。(暴言です)

では、前回のブログのウオーミングアップで、書いたように、ウオーミングアップすると動き易くなるし台詞も言いやすくなるという現象は、どう捉えるべきなのでしょうか?この点に関して、少し難しくて分かりづらい事を書きますが、そもそも、ウオーミングアップの発想の中に身体が精神の道具であるという、精神優位的な考えが潜んでいるのだと思います。そして、表現とは、ある壁を乗り越えることであり、その壁を作り出す一つとして、まず始めに、身体は温まってないと思い通りに動けないという概念を創出する。または、表現をすることは、厳かな儀式として、現在の自分を変えないと始められない。その壁の克服として、身体にウオーミングアップを強いているのだとしたら?これは、精神上の問題であり、身体にその責任を押しつけて、ある種の充足感だけを精神が味わっているだけなのかもしれない?この事はもちろん、この文章を読んだだけでは、にわかに納得することは、不可能だと思います。ある可能性として、読んでいただいて、切り捨ててくれれば、良いと思います。

つまり、暴言を許してもらえるなら、ぶっちゃけウオーミングアップは、考え方を変えるだけで、終わりになるかもです。笑

すみません、考え方を変えると書きますと、また精神優位になりますので、もう少し丁寧に説明しますと、ある集中観を作ることなのかもしれません。それは、精神と身体との関係性のことで、どちらかが優位でも、どちらかが主導権を取るとかそういうことではなく、あくまでもある一つのその場に適した関係性の構築こそが、ウオーミングアップに当たるのだと思います。つまり、身構えるということは、身体と精神との中立性の領域を創意する、または感じること、そうすることで、感性も身体も流動性を保ち、瞬時に変化することを可能にするのではないのでしょうか?

じゃあ、それで、短距離走はウオーミングアップがいらないわけですか?って、思った人は、申し訳ありませんが、もう西洋の運動のことは、西洋の人に考えてもらってください。急に走ったら心臓マヒ起こしますよ?って、それはさ、結局のところ身体を精神の奴隷にしているからでしょう?笑。でも、もし飛脚の技術が伝承されていて、その走り方が違法でないとしたのなら、短距離走だろうが、マラソンだろうが、ウオーミングアップは必要なかっただろうなと容易に想像されるわけです。それは、人生の一部であり、生活であり、仕事であるわけで、つまるところ、普通のことなのです。トイレに行くのにウオーミングアップする人は、あまりいないのと同じなのかもしれない。

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