主な参考文献

意気揚々と演技のヒントを書くといいましたが、実際に書こうと思うと、演技ということがあまりもとりとめがなく、どこをどう切り取りば、導入になるのかが、とても難しいのです。ですから、あらかじめ、いろいろとあります演劇書なるものから、ヒントをいただきそれに合わせて、書いていこうかとも思います。もちろん、脱線もしてしまうでしょうけどね。少しだけ参考文献を並べておきますが、自分としては、なるべくまんべんなく読んでいるつもりですが、やはり本となる性質上の観点から、偏りがあると思います。また、あまりにもお勧めできない本は、あげていません。世の中には、役者に対してかなり厳しく、自己の努力を強いる本もたくさんあるのですが、強いられてもしょうがないので、そういう本は外してあります。小林秀雄さんの考えるヒントの中にも出てきますが、外国の表現とは、expression つまり圧縮して外に出すです。このことは、案にキリスト教的な思想に基づいているところがあると思われます。受難ですね。ですから、物語にもかならず、成功の前には障害がありそれを乗り越えることが、とても良いわけです。このことを、演技にも持ち込みますので、どうしても精神的に追い込むことが、表現につながるという考えがあることは、否定できないと思います。もちろん、そのことをダメだと言っている訳ではありません。それで、素晴らしい映画がいっぱいできているのですから、方法論としては、間違いないと思います。しかしまた、その一方で、ハリウッドの名優たちが、覚醒剤によってこの世を去ることは、珍しいことではありません。そういう側面を考えれば、諸刃の剣とでもいいましょうか、とにかく辛いことが多いのですね。こんな根底に流れている考え方も、演技が楽しくなくなる原因の一つだと思います。つまり有名人にでもならない限り、辛いだけの職業になるかもしれないわけです。その一方で、昔の日本の場合の演ずるとは、何も創造しないことなのかもしれません、鏡の間にて、役を授かり、ただ巫者として存在し、また、鏡の間にて、役をお返しする。これだけの事をするのが、役者なのかもしれない。こう書いてしまえば、なんてつまらないなんだ仕事と思うかもしれない。でも、もう少し考えてほしい、だれでも簡単に巫者になることができますか?笑。結果として、自己(演者)と他者(役柄)との境界線が、無くなっていく事において同じかもしれせん。しかし、その過程は、真逆になるかもしれないのです。そして、この結果重視なのか、過程重視なのかが、この価値観の分かれ目でもあるのかもしれません。

この様なおおざっぱな説明ですと、昔の日本の演技方法が神秘主義的になってしまいますが、実は簡単なからくりでして、外国の表現とは、精神活動に重きを置いていて、日本の場合は、身体活動に重きを置いてアプローチをかけているという違いにまとめられるかもしれないのです。もちろん、これは、かなり強引なまとめ方ですから、突っ込まれると弱いです。最初に謝っておきます。そいうえば、表現の圧縮で思い出しましたが、ちなみに、左を大切にする文化というのを書きましたが、この場合の左の特性は、海外のような圧縮ではなく、あくまでも収縮であります。こういったニュアンスの違いは、結果として大きく違いを生じてくるものです。

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↓参考にさせていただいています。資料になります

 




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