タイパ

タイパとは、費やした時間と、それによって得られた効果や満足度の対比、すなわち「時間対効果」のこと。

これをZ世代の人たちは、時間に追われているので、タイパをよくすることを考えているとか?
それで、満足度があがるわけですね。幸せなんだから、文句のつけようもありませんです。
でも、タイパを気にすれば、そのこと自体が時間に追われることになりますよね?
少なくとも、タイパとか言っている時点で、感性を誘導するような事にはなりませんので、所作は成立しません。なので、このブログではタイパを考えることは、推奨いたしません。
効率化を図るとか、人の活動をロボットか何かの概念に近づけているのかな?とも思います。そして、ネットに出ていましたが、タイパをあげるために集中できる環境をつくることとあります。でましたね。これにだまされて、僕はここまで生きてきましたが、集中してから活動って、簡単にいいますが、とても難しいというか無理だと思います。笑。このブログでは、集中してから行動ではなく、行動が集中につながる時に感性が動いて、それが所作になるということです。

まあ、意見を対立させていてもしょうがないので、ここでは時間について、考えてみましょう。

普通に科学的に物事を捉えている人たちにとって、時間とは、誰にでも等しく、同様に流れているものという認識だと思います。そうしないと、計算とか出来なくなりますからね。
ところで、昔の日本人は、現代人のように時間は、普遍的に等しく流れていると考えていたのでしょうか?昔の日本の時計は、季節によって時間の長さがちがいますよね。そんなふうに、時間は流動的な物だったのかもしれません。

一刀流では、相手が斬りおろすのを見て、己も斬りかかり、相手よりも先に剣を到達させるわけですが、そのためには、まず己の心を斬れと言っております。
これは、科学的には、無理ですよね、相手が斬りかかってから、こちらが動いたのでは、どう考えても時間的に遅いので、負けるわけです。だから、そうならないように、つまり科学しないように、古武道では、まず己の心を斬れと言っているわけです。

意味不明だと思いますが、昔の日本人の技の世界では、集中の状態によって、時間の流れの速さが、違うと考えられて、実際にそのことを技の世界に落とし込んでいたのかもしれません。今では、その技術は失われてしまい、信じられないと思いますが、そうだったとしか思えないような文献は、たくさんあるわけです。

それは、それとして、現在の僕たちでも感じられる現実の世界でも、恋人といると時間があっという間に過ぎてしまったり、集中の仕方によっては、時間が経つのは忘れてしまうことは多々あるわけです。そうした時の時間の流れは、ひょっとしたら物理で考えるような計算できる時間の流れとは、ちょっと違うのかも知れませんよね。

物理的な時間の流れから、己を断ち切り、感覚的な時間の流れに身をゆだねたときに、はじめて感性は誘導され、より豊かな時間を創出していけるのだと思います。所作の基本は、こうした自分を位置づけるような関係性を断ち切ることが大切になります。

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