刺激からの感覚を回避する
脱線しながらのスタートをしましたブログですが、シラバスがあるわけでもないので、なりゆきで脱線していきます。よろしくお願いいたします。文字ばかり読んでもわからないと思いますので、よかったら、ためしてみてください。
刺激→反応の脱却という話の続きです。例えば、茶碗も持ってみます。
みなさんも、簡単に試せるので、是非やってみてください。
普通にお茶碗を持ってみますと、手のひらに、お茶碗の感覚が発生します。これは、お茶碗からきた刺激に対する反応としての感覚ですね。刺激→反応です。この感覚は、手のひらにあって、身体(胴体)からは離れています。そして、この感覚を、移動することも変化させることも案外難しいのです。試してみて下さい。反応は刺激に紐付けされていて固定化されている感じです。(因果論)
それでは、次に、お茶碗と手の間に手拭いを入れてみましょう。
こうやって持ってみますと、先ほどはお茶碗の表面の感覚を感じていましたが、手拭いを挟んだだけで、お茶碗の中身が気になるわけです。そして、この時の感覚は、手のひらというよりは、身体の胴体のほうにも感覚が生じているのですが、わかりますでしょうか?しかも、この感覚は、身体の中を移動させることも変化を加えることも可能なのですが、そこまでは分からないかな?笑
この時のお茶碗は、実体から離れて、間というか、空間的な存在に変化していると思います。手拭いが間を作ったみたいな感じです。この間が日本文化のヒントですね。間が出来れば、あとはこの中に感性を流し込むことが出来るので、より技術的な取り組みにすることが出来るわけです。そんなことが、このブログの実験になります。
さて、刺激→反応に話を戻します。手に生じた感覚は、身体側(胴体)には無いと言いましたが、探すことは可能です。手の感覚とつながっている箇所を探し出します。ありますね。どういうつながりを求めているかは、個性です。とりあえず、力を感じるところとつなげたとします。これらを増幅していこうというのが、西洋流だと思います。このときどちらかの感覚を固定化していると思うのですが、いかがですか?身体側に感じた力の箇所を固定すれば、手が動き出します。お茶碗を触ったての感覚を固定すれば、身体が動き出します。こうして徐々にカオスを深めていけば、expression(圧縮して押し出す)表現ということですね。かなり自己の意思が介在しやすい表現になるので、ひとつ間違えばマンネリ化をします。
一方間をつくってしまった、側ですが、そもそも、実を離れて、空のような状態ですので、固定化が難しいのです。しがって、これをどう展開して良い物なのか、途方に暮れるわけです。そこで、しょうがないので、自然の流れを求めていきます。または、第三者の存在ですね。誰そ彼は?それは、物語の登場人物なのか?お客様なのか?浮遊している霊なのか?まさに幽玄の世界に従って動くわけです。こちらは、思いがけずに発想が豊かになるというか、自分が消えてしまうので、やった感はなくなります。ただ、集中を深く出来るので、そうした楽しみは大いにあります。
はい、稚拙な考えだと思うひともいると思います。当然です、誰もやっていないことを試しているので、実験ですよ。ラボですから。笑
ちょっと話が長くなりましたので、今日はここまで