古典演劇と現代演劇の違いを考察してみる。

まず何を表現し、何を伝えようとしたのか、そこに違いがあると思う。
現在、一般的に演技といえば、
まず、台本に書かれている事柄を解釈する。(上図の青のライン)
それは、演出家の解釈または、演者の解釈である。
演者は、その解釈に従って、感性や感情を動かす。
設定された事柄を疑似体験して表現とするのである。
そこに起こる、感性なり感情を観客が鑑賞し、
その解釈に共感するという形で感動をする。
つまり観客は事柄に対しての解釈を表現者にゆだているので、
そこで起きる観客の感性は、演者の感性をなぞったのもになる。
観客はその感性を自らの経験や嗜好と照らし合わせる
従って台本上の実際の事柄は、そのまま伝えるのでは無く
そこには、脚色や演出といった意図が色濃く介在する

一方、古典的演劇は、これをどう捉えようとしたのであろうか?
あくまでも憶測であるけれども、
台本上の事柄に対して、あえて解釈を加えない、
演者は、感性や感情をもちいず、その事柄がおきたときの
状況や状態を身体操作によって表現をする
これには型のようなものを用いる。(上図の赤のライン)
型は、万人に共通の身体の言語ともいえるので
観客は、型に同調することにより、事柄を疑似体験をする可能性がある。
観客は演出という意図をかいくぐり、作品の中の事柄に対して
自らの解釈を入れることが可能な間を有することになる。
みずからが作品の事柄に対して経験をしたような身体感覚を得るならば、
感性や感情を新鮮にその場で感じる可能性を秘めているわけです。

ある事柄に対する感性は、人それぞれである
事柄をそのまま伝えようとする場合、演者の感性はかえって邪魔になる。
演者が巫者となることで、観客は演者の身体に嵌入することを
通じて事柄に触れることが出来るのである。

もし、身体感覚を通じて、観客が演劇を体感することができると想定して考えた時。
人は、自分の経験に対してあまり善し悪しの判断をしない。
ひと夏の経験は、ただひと夏の経験であり、そこに付加価値を見いだそうとはしない。
これが、他人の経験や価値判断を聞かされれば、ただちに善し悪しを論じたくなる。

つまり、観客が面白い芝居だとかつまらないなどと感想を述べるのは
演劇を鑑賞したのであって、体験したのでは無い。
体験したのであれば、それはその時の自分自身の状態であり、感性であるから
それを良い悪いと人に向かって言う気にはあまりならないだろう。

僕は、ここに新しい可能性を感じている。
演者の価値観や感性に共感をもとめる。従来の演劇では、
つねに新しい刺激の供給をもとめられるし、新鮮さを追求する必要性がある
つまり、なにか新しいものを作り続けなければ破綻してしまいます。

映画とか、演劇がいつのまにかパチンコ店のように、おびただしい刺激だけ
を与えつづけるものになってしまうかもしれないのです。暴力、エロ、グロ、、

しかし、身体言語による古典演劇では、即興的であるのはむしろ観客であり
演者は、ただ観客の想像力をたすける存在として観客に同化、同調するわけです。
観客は、演者の感性に共感するのでは無く、演者の身体を利用して
自らの感性を導き、芝居に移入していくわけです。

こんな事が実現できるのなら、無理して新しいものを作る必要性も無く
過剰な刺激を観客に与えて、満足してもらう必要性も無い

観客はただ、演劇というるつぼのなかに入ってもらうだけで良いわけで、
そこで繰り広げられる、演者の観客との真剣勝負を堪能してもらうのです。

これが、ひとつの演劇スタイルになる可能性はあると思います。
このような考えかたは、古典的で宗教的だと切りすてるのではなく
新しい可能性として、大いに期待のもてることだと思うのですが、、、

次にここで問題になる事が、身体言語とはあるのだろうか?
またそれらは、相手に伝ふものなのだろうか?ということですね。

そこを探っていきたいと思います。