2020/10/5

「間合い」を距離感、または距離間、相手とのスペース、距離などとの解説や説明は聞くことがあるが、それは「間合い」の意味の一部のファクターではあっても本意 根本ではない。
“間合い”とは実体や物理性、物質性を規範としない空間の話しであり、これは必ず「位(くらい)」と共に用いないと分からないよう出来ている教え伝えである。そして「位(くらい)」を理解し捉えるには「機(き)」の捉え方が教伝か個々の経験として伴って、初めて「機、位、間」が合い、それらの事が用を成す。その入り口に「間合い」は存在する。
ただ、これは経験的身体であり、物理的身体や物理性/物質性の話しではないので、そこには経験的身体を知り、獲得し、理解して行く稽古と経験が必要になってくる。その一つの基礎が経験的身体における「空間」「空(くう、から)」の捉え方になる。ただ、ここは経験的身体の捉え方の「基礎ノ基礎」が出来てないと難しく、兵法武学研究会などにおいては基礎の初伝、中伝、奥伝があるとするなら「基礎の奧伝」あたりの経験、理解、教伝になるかと思う。
「左右観、四つの陰陽表裏」などが基礎の初伝だとすると「四方の身体」「型と勁道(勁導)の理解」「直線、直角線、曲線など線の経験」辺りが基礎の中伝になるかと考えている。
そこから基礎の奧伝に先ほどの「経験的身体における空間、空の捉え方、理解、稽古」と兵法武学研究会・応用クラス的な「線、円、渦、旋転、螺旋」などが入ってくる。そうなる本当の意味での兵法武学研究会における「応用」とは何かが、真に問われて来る。一つ言えることは物質世界的な疑問や物理的現実性を規範とする質問などが自分の内容から一切消えてくると「応用」が初めて始まる。ようは皆な現実や真実の規範が未だ物理的世界の現実性や物質還元主義的な身体性にあるなら兵法武学研究会の「応用」稽古には至らない。ただ、そこは出来ないし分からないことが多々あるだろうが次々と提示されてくる教伝を観て、尋ね、聴き、理解と実技を試みるしかない。

2020/12/13

身心ノ稽古における“怒り”の心が生じた時、その“怒り”を何処に移せば良いかを観ていた。 三観ノ法の「うつしみ」である。 三観ノ法は「かえりみ、うつしみ、てらしみ」の三つ方法を云う。 これ武学における身心ノ稽古の一端ならは。怒り、怨み、恨み、辛み、悲しみ、これらの心は常に生じ得るのと、消えても幾度となく生じるが、自らの心を持ってして移ろわせるしかない。 これ頭や知識、意識を使うと失敗すること多し。これ身心のみが可能とする業(わざ)と術なり。怒り、怨み、恨み、悲しみは上手く移ろわせると凄いエネルギーにもなる。 上手く移ろわせる心の業(わざ)と術の後は、そのエネルギー源から放出しようとするエネルギーに方向性を与える術と業(わざ)が必要となる。 その業と術を用いれた時、そこに本性の“からだ”現れ武が成立する。

2021/1/26

自由を与えられると自分は何をしたら良いのかと外からの拘束を求めだし こうしろと言われると自由にしたい言って来る また無理して言われた通りにやっていても伸びないし 何らかの教えを一切なくしての我流は存在し得ない ここに何かを習うことや習得することの難しさがある。 型が共感領域を経過し同調に至るには、自分でさえ分からない自身の内面に潜む“からだ”の世界へと入って行く必要がある。
そこに型は存在する。 外の世界で共感共有している文化としての型から個々の内面に潜む型が内外の世界で矛盾しながら矛盾したまま矛盾が成立している。

それは外の更に外にある「外之外」の世界は「内之内」にある“からだ”の世界と全く繋がりなく関係し合っている。 私たちの内之内にある“からだ”は“み”と異なり、何かと触れ合うことができない。携わるも触れられない、関係するも繋がってない、そのような所に“からだ”の経験は存在する。 

2021/5/11

自分を観ながら自分を知って行くことで結果的に他を知ることができる。 このように自他を良く知ることが、技が懸かる現象を生む。これを大陸の古人は良知良能と言ったりする。

ただ、私たちの自我・本能・プライド・感覚判断の源となっている「既知の経験値」が「無知の経験値」からの教え伝えを見えなくさせてしまう。 ましてや意識や精神、概念、観念、肉体を強固な規範しようとする自我、本能、知能、知性などは微塵たりとも「無知の経験値」を知る余地もない。

もし、本当に“可能性”と云う言葉を用いて、本当の可能性を発見したいなら。 それは絶対に「既知の経験値」からは生じないし、発見されない。 その可能性は自らの未知にあり、無知にある。 その可能性の源泉を「経験された無知=無知の経験値」が潜む「から だ」と呼ぶ。

2021/12/31

結局のところ瞑想など精神世界系の人間やボディーワーク系の人間、アカデミックな世界の人間も皆、同じで自分が「意識して」「意識を用いて」「意識できる」対象を求め相手にしている以上は何処かで「操作、コントロールできる対象」を求めている。
コントロール、操作に自然はなく、その操作願望やコントロール欲求を体観し根源的にコントロールや操作できない自分を発見し見つけなければ「不自然さが習慣化した一見自然に見え、自然に感じる不自然さ」しか自分の中には存在しないことになる。
自分ごときにコントロールしたり操作できる自然は根源的な自然の姿ではない。ましてや自分の最も自然な姿形でもない。
自分が勝手に理想化した自然はコントロールの対象となり操作願望の対象になる。コントロール=不自然を捨てるために更にコントロールしないといけない事を増やし、操作することでドンドンと不自然になって行く自分に逸早く気づけ、不自然を自然へと導く稀有な体系を発見し身に付けれるか否かが問われる
繰り返して言うが「意識して身体をコントロールできること、操作できることで生じた動き」と「自然な動き」は同じ Plateau[ブラトー)には共存できない。なら、まずは自分は不自然な動きからスタートしている自覚が必要で「こう動けば自然」と言うこともできない。
ただ、そうすると精神論で誤魔化しさえすれば「習慣化された動き(Conditioned movement)」を「自然な動き」と言えてしまえることも分かるだろう。
意識して出来る動きが習慣化された場合には「ワザとすることの習慣化」されているだけで「ワザと」と「自然に」が二つ合間みいれない状態や動き、行いになっていることは少し考えれば理解できるだろう。
武術/武芸ではダンスやボディワーク、精神世界、スピリチュアル系、アカデミズムらと決定的に異なる所が「もとの無病の身となるや=無為自然」に向けて意識を打ち消して行くことにある。
意識による操作やコントロールがトコトンある不自然さの中で、不自然さをトコトン理解し、より精妙にトコトン操作・コントロールしてもし切れないほど根源的な自分の自然を導き出すことに私が教え伝える武の意義がある。
よって、自分をコントロールできて喜んでいたり、身体を脳化し意識で操作できるようになることに高揚感を感じているようなら、それは武で求めている自然観とは異なる。
ダンス、舞踊、芸能、ボディワーク、精神世界、スピリチュアル系、ナチュラル系などを偶に見ると、口先では他人の名言を言おうとも、宇宙や自然など凄そうな何かを語ろうとも「意識してコントロールし操作できる身体操作法=不自然な動き」を良しとする身体性が彼ら彼女たちに見えてしまう。
自然な動き云々や宇宙と繋がった動き云々と実質的に言うなら私のような一人の人間の動き(攻撃)などは取るに足らない簡単か対象で何とかできるだろう。そのような宇宙的な動き云々や自然的な動き云々と言う方は真実や真偽を確かめるべく私と交流して見てはどうかと。
私が言いたいことは20年以上「意識して操作、コントロールすること」を良しとするか否かの話しだが、他のジャンルは兎も角、武術/武芸における答えは「否」となる。
まずは人間にまつわる様々な不自然を認め、受け入れ、見詰めて行き、そこから等身大に自分の自然を体観し、そこから不自然と非自然の違いを知り、非自然でさえ自然の法(のり)とに従わざる得ないことを知って行く。ここに人間の無為自然、もとの無病の身となるや世界が存在する。