2020/3/15
身体観とは感覚の裏側にあり 集注観とは感覚されない其処に集注を向けること 感覚されている其処には集注すべく集注観も身体観もない 身体観とは自ら感覚できない“からだ”であり 感覚できる其れは残像に過ぎず また実体でさえも“からだ”ではなく 古人は云う、風、気、空が私たちの本性であると

2020/4/13z
守・破・離の異なる段階と層の身体観が改めて別の形で観えてきた。 これも、世の騒がしさのお陰かもしれない。 周りが騒げば騒ぐほど私の内面は静かになって行く。 三元分立には三段階での分立が必要で、その分離を勢いを殺さず丁寧に行えるかどうかが鍵となる。 実体、感覚体、客体、気之体。
最近は三元分立を成立させるには「運動方向と感覚方向の分離」から入り、「気と感覚を分けて分立する」必要がある。 それには物理的身体(意識体)と感覚的身体(感覚体)を見分け、分離させ。 感覚体と客体の違いを知り、客体と気之体を観分ける稽古が必要となる。 ここに来て「三元分立」は成立する。
また「三元分立」は何らかの「型」か「式」を介してしか技や術としては為されない。 ようは三元分立は人間が皆、無自覚には常に生得的に持ち合わせている働きであり、その用い方が文化性などに従い千差万別あるだけである。 ただ、これは無自覚ゆえに技や術とするには手間が必要である。
この場合、規範が現在進行形か、厳密には過去から現在へとやって来た私たちのタイムラインと、未来が刻々と私たちの前から通り過ぎて行くタイムラインの狭間にある交差時点が常に止まらない交差点であり、同時に一切の存在が確定し得ない場である「刹那・真(ここ)」でリカージョンは起きている。
これは以前に稽古でも実際の稽古方法と合わせて説明した「再現性の錯覚」「一回性を規範とする周期性と法則性の真理」とも関わって来る。
しかし、これを求めるにも無自覚に身に付いた基礎をもととする行き当たりばったりの方法論では一回性はあるが、周期性から見出された法則性なき偶然の博打となり、「リカージョンなき現在進行形と未来形の錯覚世界」に陥ってしまう。
または周期性と法則性ばかりに捉われる「再現性の錯覚」に縛られた者は繰り返しの無限ループに止まりリカージョンできずに同じ場所(錯覚世界)を繰り返しループする地獄に落ちいてしまう。
そのような事からも分かるように、自覚できる型や式を用いて稽古することで同形化のもと、初めて身体と技の質的転換が具体的に求められるようなる。 私の定義する型、式によるリカージョンが現在進行形の中で質の転換へと繋がって来る。
また『型、式によるリカージョンが現在進行形の中で質の転換』を成立させるには『三元分立』による現象が稽古にて導き出されなければ、その技は何れにせよ付け焼き刃に過ぎない。 まあ、付け焼き刃の優劣を競う方が分かりやすく、その論と理屈が世にも受け入れられやすいことも今は確かではある。

2020/4/16
身体が実体や肉体だと信じている者は常にビクついて生きながら、何にでも罹り、何にでもやられてしまう。 また、身体がファンタジーや既存概念内の物事だと思っている者は不意打ちを食らうようにノーガードでやられてしまう。
武を通じての人間の死生観、生命観の探究は起源が見えないほど古い。 ただ、人類が単純な暴力や本能的な争いから脱皮したく生じた体系であることは確かである。 されど、自身の内面や他人との関係において他者との葛藤や“斗争の原理”が私たちの内面に浮上してくる。
その斗争の原理、葛藤を鎮魂する術が武には存在する。 ただし、それは誰よりも斗争の原理や自らの葛藤の源流を知る者にしか扱えない術であり、常識からは外れた身心の鍛錬が必要となる。 それが武の稽古である。 この武の術を扱い、そのような武の稽古が行える者、武の体系を持つ者、稀中之稀なり。
では如何に洗練するかであるが、ここは無自覚であろうと、自覚の有無とは関係なく何らかの型や式が基礎的な動法として身に付いてないと“そこから” 洗練、変化し極めて行く為の基盤がないので、そもそも成り立たない。
この型や式を持たない流儀・流派・個人は存在せず、ここは当人が型や式を用いていることに対する自覚性の問題である。ここでは自覚・無自覚の優劣を言っている訳ではなく、単に有無を言っているだけである。この論を見て、仮に優劣を感じる方が居るなら其れはご本人の感じられている優劣でしかない。
例えば母語などが良い例だが、この母語は最初の段階では赤ちゃんの頃から所属文化圏に身を置いているだけで無自覚に獲得されて行く。ここで後に同文化圏の喋り言葉だけでなく文字を習得する時に過去から現在進行形へのリカーブ現象が起きる。
ここは私のリカージョンの定義になるが、一般論としてのリカージョンとは異なる所があるかとも思う。 私は今から過去へリカーブする現象をリカージョンと呼び、過去に規範を置く論とは異なる「現在から過去へ、そして過去から現在進行形へ二重にリカーブする現象=リカージョン」としている。

結局のところ平時に生命だの、生きていることだの、命だの、天だの、神だの、仏だの、身体、心身などと言っていても、いざとなれば殆どが自他の生命、生きていること、命、身体、心身、神、天命を信じてないことが今のような時には良くわかる。
これは武で言う所の「口上手、稽古上手の実践できず」である。 スピリチュアル神秘系は結局のところ大半が根拠ある科学性に頼り。 実践派や武闘派と呼ばれている大半は神頼みに走り。 科学や医学は生命の根源を知らず既存概念に縛られ逃れられず。
だが、ここで 自身の生命を信じず何を信じる 自身の身体を信じず何を信じる 自分の身心を信じずに何を信じる 生まれ来たことと死に行くことを信じれずに何を信じる 天命、神意を信じずに何を信じる それらを感じ取れる自分を信じれずに何を信じる と言いたい。

2020/7/29

今の時代は時間を規範に空間を生きる身体性が普通になりつつあるが、本来は空間を規範に時間が二次的に存在する生き方が普通だった時代と身体観があった。この身体観は失われた訳でなく、見失われただけである。
兵法武学研究会で扱う身体観、身体性、武術/武芸/武道は前者の「時間を規範とする空間」から入るも、必ず『空間を規範とする時間』の身体観へと向かうようになっている。
また、そこから一周して今主流な身体観である“時間規範の身体観”へ戻り、リカージョンして行くことで、稽古は現在進行形の時空へと戻りながら進んで行く。
よって兵法武学研究会を受講したことある人なら大なり小なり経験があるが、稽古中の時間が密に圧縮されアッと言う間に三時間が過ぎていたり、空間が変化し時間を変えたりなど、様々な現象と身体の経験が其処にある。
これは“空間”や“場”、“ところ”に異なる身体の層位があるから生じる現象で、最初は不思議に感じる人も居るようだが、慣れて来るとその現象が少し普通に感じられるようなって来る。
これは私ならではの身体(からだ)、空間、時間の観覚の仕方、捉え方、扱い方、操り方なので、その辺りが伝わると身体観の共通言語ができて来るのかも知れないなどと最近は考えている。

2020/8/8

人は必ず自分のことは関係性の中からしか知れない。 感覚的にも何かを感じている私と、その感覚している私を観覚しながら感覚を観ている私が其処にいる。 これが感性と観性である。 また相手や対象があるからこそ、その関係性から自分を省みることができ、自分を知ることができる。 これ武術なり。

2020/09/26

兵法武学研究会で「観覚」と「感覚」の違いと関係性について少し触れて行きたい。 これを実際に、実技にて理解して行くには「観性」と「感性」の違いと関係性に踏み込んで行く必要がある。 そこには「気」と「力」「意」「志」などを詳細に分けて観て、一つ一つの経験を感覚する行為と関係してくる。

作為は棄てるのではなく更に深く追及し行為化して行く必要がある。 たしかにその作為が無作為になれば母語が身についたが如く無造作に其の行為が行われる。ここまでが武の基礎基本となる。 母語の如く、作為が身につき無作為な行為と化すれば、そこからが本当の武の稽古の始まりである。
応用は基礎基本を更に追究するところに本意があり、単なる応用技や実用技の話しではない。もちろん、応用や実用も結果として出来るようなるが、それはオマケのような所もある。
そして、基本即応用 応用即基本、基礎即奥義 奥義即基礎はその追究や探究の仕方で其れまでとは全く異なる意味を持って来る。武の学びの深淵の深きこと、我それを垣間見るも届くことなかれ。ゆえに稽古研鑽あるのみ。精進々々。

体認、体会、体観 『体認』とは一切“体(からだ)”で起きている現象を認める行為である。 作為は身体への不信から生じ、不信は作為から生じる。 『体会』とは体(からだ)で起きている現象との出会いである。自他内外を通じて私たちは無数の体(からだ=現象)と出会って行く。
しかし、この『体観』も体会・体(からだ)との出会いなくしては観る対象もなく、その体(からだ)が未知から立ち上がってくる現象を認められなければ百回千回と目の前を通り過ぎても体観は得られない。無論そけに体認、体会もない。
よって、私の教えは「体観、体会、体認」の三つの現象と行為が稽古の要となっている。 会うことなくしては認められず、認めずしては会えず 認めねば観えず、観えねば認められず 会うことなくして観えず、観ずして会うことなかれ と言ったところかと

2020/09/30

究極的に一度に出来る技は一つしかない どの一つを直観的かつ感覚的に、自然と其の時に最も最適な技として選ぶかは分からないが、その直観的選択能力に勝負は掛かってくる。 ただ、その瞬間に出来る技と動きは一つしかない。
ただ、稽古と稽古場においては状況設定などをするので、必然性と偶然性を他力として感覚し「その瞬間」を観覚できるような稽古に取り組める工夫が必要となる。
その状況設定は実践では存在せず、実践においての偶然性や必然性には私たちの選択肢はないことを常に弁えて置く必要がある。 また稽古においては自力(観性、感性)と他力(型/式、稽古方法)にて偶然性と必然性を感覚できる瞬間を招けるような稽古の工夫が必要となる。

2020/10/01

私たちの存在が今に在るとすると、私たちが観ている風景は必ず空間的に私の存在とズレている。 この空間のズレから私たち人間は内面的に時間形成を行なった。 よって私たち人間には時間が存在し、その時間を共有し始め、そこに価値を置くようになった。

そして無自覚にも時間のズレにより実際は空間のズレを体観するようなったが、知覚認識できるのが時間のズレや時の流れのズレ故に時間を共有し用いるようになった。 しかし、実は経験されているのは空間のズレと歪みであり、私たちの“経験(からだ)”は其処に存在する。

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