詩的身体演技に関する覚え書き

ジャンウェン 東京藝術大学博士課程

映画の演技は生命がある身体(俳優)が生命がない身体(演出)に対しての調整と理解したら、映像技術の進歩によって、観察対象としての演技者の身体は、絶えずに変動している独立変数として見なすことができる。しかも、この変数は観察者の認識に生じる錯誤、または機械技術に伴うエラーやノイズによって、決定できない「詩的」な性質を持っている。--詩的身体の生成覚書

素人は表現しない時独特な雰囲気を持っている人もいるけど、何か表現するとき、あるいは自己開示するとき、紛れなく紋切り型になる。それは私たちの表現ないし身体に既に映像が浸透しているからだ。物事がわかる時からどこにも映像があった。本物の感情に出会う前に既に映像を通してその感情を知った。だから本物の感情が来る時、あるいは自己開示する時、私たちは無意識に映像の模倣してしまう。それ以外の表現を知らないから。特に日常で感情表現を抑えている人はもっとそう。本当の意味で自己開示したことがなかったので、表現の仕方すら知らないかもしれない。もちろん本物の感情が来る時、映像で見たのと違うと思った時がたくさんある。でも映画で、素人の俳優に自分が実経験がない虚構の感情を表現させると、素人は本当に真似するしかできないと思う。人間は自分の認知を超えることができないから。

考えてみると、映像に浸透された現代人は表現だけでなく、自分の身体を持っている人も益々少なくなっている。好きなアイドル、俳優、尊敬する人、憧れている職業の人、映像を通して簡単に身近で観ることができるから、真似しないのは返って不思議なほうだ。きっと映像がなかった時代の人間に会うと、びっくりするに違いない。その身体のユニークさに、その複雑さに。

自分の身体、自分の表現を持っているのは、映像に汚染されていない人(怪人or天才)、あるいは意識的に映像の影響を抵抗している人、つまりいいプロの俳優。いい俳優と素人、平凡な俳優と違うのは、グロトフスキが既に言ったように、何をすべきではなく、何をしないことがわかっている。あとは自己開示だ。つまり日常から身に染みた抵抗から自由になる。自己開示に当たって、プロは素人と違うのは、プロの俳優は何十年をかけてできた「型」持っていること。それはいわゆる「前表現性」、「気場」という魅力なのだ。その「型」、「気場」ーー自分ができるまた自分しかできない制限の中で自由と自分らしさを発見し、可視化する。それは工夫と才能が必要な難業だ。型は紋切り型とは違うのは、紋切り型は他人に対する模倣に対して、型は模倣ではできない「身体」なのだ。(紋切り型を何十年もやって、紋切り型の身体になってしまったら本当に哀れだと思うが)それはいいプロの俳優が年月をかけてやっと創造できた、日常でも紋切り型でもない演技身体で、映画の場合はキャメラと共謀できる身体なのだ。