ただ歩くだけのお芝居
普通のお芝居のアプローチですと、歩くという行動には、それなりの動機なり、目的があるはずだと設定を考えますね。もっと複雑にするなら、そこに何らかの感情を乗せてみるとかするわけです。このことは前回も書きましたね。
ところで、問題はこの机上で考えた設定にどこまで集中できるかという事です。絵に描いた餅みたいなものですからね。どうしても希薄だったりおおざっぱだったりしています。そこで、過去の経験の記憶を呼び出して使ってみようというのが、たぶんアクターズスタジオの方法論ですね。
一見よさそうですが、というか世界的にこれが方法論として確立されて使っている人が多いので、正解なのです。方法論としては申し分ないのですが、あまのじゃくな僕としては、現在進行している芝居の中で、過去の記憶をたどると、どうしても現在と過去がごっちゃになって、結局どちらか片方にしか集中出来ないような気がしているのですが、みなさんはそんなことがないのかな?
ここからは、身体演技で一般論ではありませんので、気に入らない人は、さらっと流してください
僕が思うに、精神で作り上げたレイヤーは、結局のところ何枚も重ねられないのではと思うのです。例えば、野球のバッティングの時に、注意することはいろいろありますよね。グリップの位置とか、脇の締め具合とか、腰をスエーさせないとか、フォロースイングを大きく取るとか、インパクトの瞬間に差し込まれないようにするとか、足の位置とか、まだまだありますが、、さてこれらのことをすべて注意しながら、球が打てますか?って事ですよ。笑。そんなことをしたら、間違いなく怪我をします。だから、少年野球など故障者だらけなのでは?これは失言ですね。要するに、精神で使える項目は、三つぐらいのレイヤーを重ねるのが限界な様な気がします。なので、野球の達人に聞けば、来た球を打つだけだと言って終わるやつです。つまり最終的にはシンプルなんですよ。怪我しない方法は、シンプルにするべきなんです。
芝居に戻りますが、設定を頭で考えていると、結局、紋切り型になるわけですが、だって、そんなに発想って、ポンポンと出てきませんよ。だいたい四パターンも考えたら、すぐに詰みです。過去の記憶もそうで、だいたいパターン化してきませんか?というか、記憶は使っていると劣化していきますよね。
だから方法論が必要なんでハリウッドで技術が開発されているんですと、言われると思いますが、精神のレイヤーを重ねても、まじめにやればやるほど、彼らの目指すところの、役を演じるな、そこに存在しろという、目標からは、遠くなっていく様な気がします。リアリティを求めて、リアリティを消していくような、パラドックスですね。つまり、来た球を打つだけだ、が出来なくなるのです。
じゃあ、何も考えずに歩くだけのお芝居は、歩くだけなのか?まあ、それでは、芝居する意味がないですよね。第一つまらないですね。
そこで、何に集中するのか、ではなく何を捉えれば、集中に入っていけるのか?って事です。集中して歩くのでは無く、どう歩けば集中をどんどん深めていくことになるのかって事を探すわけです。
それには、精神ではないレイヤーを重ねて行くことが良いと思うのです。ここからは、科学ではなく文化の領域になります。エビデンスなんてありませんよ。理があるだけです。だから素晴らしいと僕は思っています。さて、あなたは何枚のレイヤーを重ねられるかな?
レイヤー候補
・精神で考えた設定
・呼吸の流れ
・空間の把握
・気の流れ
・力の流れ
・感覚の流れ
・感覚以前のうやむやした流れ
・脈の流れ
共演者がいればさらに、
・相手の身の流れ
・相手の影の流れ
・相手から伝わる力の流れ
・相手から伝わる気の流れ
・相手がいることで変わる自分の状態
これらのレイヤーは次元が違う存在なので、レイヤーを重ねても集中を切らさないで、深く入っていけるわけです。そして、これらは机上の話では無く、今ここで実際におきているリアルな実態なのです。あとは、ここまで読んで、馬鹿にしてスルーするのか、試しにやってみるのか?という選択肢があるだけです。笑