例えば、ただ歩くだけのお芝居
例えば映像のお仕事で、たまにあるのが、普通に歩いているシーンを撮りますので、ここを歩いて下さい~。
これって、やってみると以外と難しいのです。もちろん、それはおまえが芝居下手だからでしょ?って言われてしまえば、それまでのお話ですが。普通は、どうしてもぎこちなくなってしまうと思うのです。
このことは、僕だけの事例では無く、案外多くの人が体験しているのだと思います。だから、演技ワークショップで、その行動の動機や目的を考えたり、その時の感情は?なんてことまで掘り下げたりするんだと思います。でしょう?笑
このことについて、フランスの映画監督のフランソワ・トリュフォーさんが面白い事書いてます。僕のブログ
シネスコサイズの映画なら行動の動機は必要ないってお話です。面白い。
お話を戻して、ただ歩くことがなぜ難しいのか?ですね。
普通はただ歩けば良いだけでしょうと考えるわけですが、なぜ上手くいかないのか?それは頭では、歩くと身体に指令をだしても、実際の身体のほうはついてこないわけです。え?え?だって普段も、歩くと思ってあるいてますよ。と思いますよね。ですから、普段も身体はついてきてないのです。ただ、歩いているわけですが、すぐに違うことも考えてしまうので、その違和感に気づいていないだけなのです。ところが映像で、ただ歩くというとき、それだけを際立てしまうので、違和感を感じてしまうのだと思います。
ほかのブログで、錐体系の運動と錐体外路系のうごきについて書いてますので、参考にしてください。
しかし、これを書いてから、かなり時間もたっていますので、ちょっと違った視点から、アプローチしてみようと思います。
アクターズスタジオのメソッド演技とかをかじったことがあれば、知っていると思いますが、役者は、何かに集中していることが重要だと書かれています。僕もその通りだと思いますし、このサイトでは、そうしたことを追究しています。ただ、ハリウッド式と、身体演技では、集中の種類が真逆になってしまうようです。集中の対象、つまり何に対して集中するのかとか、どのような集中をするのかという集中の種類のこととか、集中をどこから確認するのかという視点について、鏡に映った自分なのか、自分自身から自分を見ているのかとか、集中の深さの問題とか、項目をあげると、ちょっと、多岐にわたって、嫌われてしまいそうですね。
ただ、こうした集中の多様性が、リアリティというか、自然さを作り出すのだと思います。
学校で先生から言われてきた、集中しなさい!という集中は、観念でしかないので、無茶苦茶漠然としていたでしょう?そのまま、芝居にもこんな漠然とした集中という観念を持ち込んでも、技の世界にはならないと思いませんか? もしそう感じて頂けるのなら、もう少しブログを補足していきますね。つづく