感情演技
オリンピックの女子柔道で、負けた選手が、大声で泣いていたのが、話題になっていましたね。
その是非は、ともかくですが、ああした感情をむき出しで、闘うことを、どこかで望んでいる節はありますね。これこそエンタメだと、思うのかも知れません。西洋のスポーツも力と力のぶつかり合いを期待しているし、その先にあるのか、その前にあるのか、わかりませんが、感情と感情のぶつかり合いも力と同様に面白いと期待しているのだと思います。
これが感情演技ということの求められている基礎なのでしょうか?
たぶん、多くの人がそうだと信じて演技をしていると思います。僕にはそれを否定するほど、うぬぼているわけではありませんし、むしろそこまで感情むき出しに出来たら、きっと楽しいだろうな思うのです。アニメの推しの子でも、きっとアクアはそんな芝居をして脚光を浴びるのだと思います。
ただこのブログでは、感性を誘導するためにどうするかということを主題にしているわけです。笑
では、感性と感情は何が違うのでしょうか?
感性は感情を誘発するもの?たぶん、学校ではそんな風に習ったと思います。五感の記憶とか、ですよね。その場合、感覚→感情→行動、のようなストーリーを描いているのかなと思います。結果として、最終的には行動なり感情のぶつかり合いが、演劇だとするわけです。
しかし僕は、このような時系列的な、または、因果論的な、感性と感情の関係性に、すこし疑問をもっています。
そもそも、感性と感情は、次元の違う空間に存在していて、お互いに干渉もしていないのでは?という仮説です。ただ、主導権はあって、感情が主導権を握れば、感性は消えたようにみえて、感性が主導権を握れば、感情は収まる。主導権という言葉は、嫌いなので、あれですが、ちょっと今は、良い言葉が見つからない。
柔道で、泣き叫ぶのは、道としてどうなのか?と考えるのは、感性が感情を抑えている場合。感情が感性を殺せば、泣き叫ぶことこそ、努力してきた者の勲章だと考える。こう考えると、なんかすっきるする。笑
感情がむき出しになれば、瞬発力もあり、力強さと、人を惹きつけるが、再現性に乏しいのと、コントロールが難しい、演じてて気持ちが良いが、それを技にまで高められない。一度しかできないし、何回もあれば魅力を失う。だから、昭和の映画が一発撮りが多いのは、それが理由かも知れない。柔道も試合のたびに、勝っても負けてもビービーと両者が泣かれたら、観客としては、ちょっと面倒な話になってくる。笑
一方で感性は、意思がまったく通じない、意図的に誘発もなにもできない。コントロールは最高に難しい、だが、それでも僕は、感情よりも再現性があると信じるに値する。それは、なぜかといえば、感性は形を持たないから、特定できないから、つまり、逆に言えば何にでもなれる。そのものずばりでなくても良いわけです。感情はかなり、厳密に設定できるから何度もできないし、何度もすると飽きるし、集中ができない。
感性は違う、鬼が出るか蛇が出るかわからない、だからこそ、即興的になり何度も繰り返し集中できるし、何度も出来るから技の世界にもちこめるし、つまりは道が見えてくるという訳です。幽玄だからこその、感情演技とは違う次元の深さを求めることが可能になるのかもしれない。
ちょっと理解に苦しむ内容でしたかね?へへ、なんならもうちょっと、この話つづきを書きますね。