練習でした珈琲カップのことで、静止した物を集中して再現しても、芝居をすれば、消えてしまうという事実は、非常に重いことですよね。
みなさんは信用はしないと思いますが、そうしたことはありうると可能性として考えて欲しいのです。

箇条書きにした役作り、背景や小道具、相手役、物語の登場人物などなど、そういう静止した概念で作られた記憶は、お芝居のなかでは、活かされずに終わっている可能性がありますよということです。
劇団などは、公演前に付け帳というのを提出するのですが、そこに大体の役作りや、使う小道具、衣装のイメージなどを書いて提出するわけです。
しかし、この時に書く役作りは、かなりおおざっぱで、今考え直してみると、この付け帳は演技にはなんら関係させない方が良いと思います。

ある人物を、箇条書きにして表現するというのは、知らない人だから出来ることで、少しでも経験的に知っている人になると、途端に箇条書きにすることが難しくなりますよね。その人のことを知れば知るほど、箇条書きなんかでは表現できないと思うわけです。
つまり、役を箇条書きにできるなら、そのことはまだ役作りの設定が不完全だということの証であるというジレンマに陥るわけです。

これは演技を科学することの難しさでもあるわけです。もちろん、科学しないのが身体演技ですが、

例えばスポーツで、野球のバッティングで、コーチから言われることは、バットの持ち方だとか、グリップの位置とか、肘と脇の関係とか、腰の位置とか、いろいろありますが、それらを真面目に守ると怪我をするだけで、成果を上げる人は、結局来た球を打つだけとシンプルに思っている人が多いのだと思うのです。実際僕も昔は肩が強かったのですが、野球やっている人に投球フォームを直して頂いたら、まったく球を遠くに投げられなくなって、最後には肩が壊れました。笑。こんなギャグみたいなことを、真面目に取り組んでいるのが多くの日本人かもしれません。

さてさて、役作りはほんとうに必要なものなのでしょうか?とここでは問いかけだけ、しておきます

演劇も概念をかえてみませんか?ってのが、身体演技の方向性のひとつでもあります。

 

感覚の記憶

実験室